パリで街中の貧困に向き合って気付いた自分自身の矛盾
以前の記事で、街中で物乞いをしている人にコインをあげるようになったという話を書きましたが、その実践を通して気付いたことがありました。
それは、困っている人全てに分け隔てなく接するのではなく、区別して接している自分がいるということです。
ある人にはコインをあげて、ある人にはあげたいと思わないことがある、ということが分かりました。
その基準とは、多分、その人が何とか生活をしたいという努力が感じられるかどうか、です。
例えば、電車に乗り込んできて
「私は難民です。子供がいます。食べ物を買えずお腹がすいています。今日の夕食のためにお金をくれませんか」
と演説をしてまわる人にはあげたくなりますが、
道端でコイン入れのカップだけ置いてタバコを吸っている人には…どうもあげたくなりません。
タバコに使ってほしくない、と思ってしまって。
それって、たとえば「生活保護を受けている人が髪を染めているのはおかしい(そんな贅沢な)」と言うことと近しいなと気付きました。
結局、与える側が、受け取る人に対して「最低限」と「贅沢」の基準を与えようとしてしまうものだなと思いました。
もしも私が今後なにか「援助」する立場になったとしたら、その相手に対して自分の考えを押し付けてしまうのではないか、という葛藤が生まれました。
物乞いの人に分けることは、
「隣人愛」の実践のつもりでいましたが、
真実にその人を心から応援する気持ちで接するというのは難しいことです。
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